13.今のことを考える

平成の終わりに地下鉄サリン事件で死刑を求刑されていた人の死刑が執行された。私はあの日大雨で会社に行けなくてのんびり家で過ごしていた。そこに速報で死刑執行のニュースが入ってきてすごく落ち込んでしまった。自分の中で大きなテーマとして考えてきたのに、結局何もわからないまま事件の終止符が打たれたと思ったからだ。すごく無力だと思った。

それが落ち着いて、少しずつオウム真理教に関する振り返りを自分なりにしたくて「アンダーグラウンド」と「約束された場所で」を読み始めた。

本についての考察は後にするとして、村上春樹河合隼雄が語っていたその時代の日本の様子と約20年経った今の様相がやや変わってきたなと思って、それについて書きたくなった。

日本がどうして変わったかと考える時私は「SNSの普及」が特に日本では影響が強かったと思っている。

オウム真理教が力を持っていた90年代、日本はバブル経済がはじけ、諦めというものが漂っていたのではないかと思う。またオウム真理教信者のインタビューで多くの人がノストラダムスの大予言の話題を出していた。90年代は高度経済成長が終わり、バブルがはじけ、日本の「頑張れば報われる」精神に陰りが出始めころだと思う。大きな思想の軸を失った日本で、問題意識を持ち、かつその問題改善を完全に他者に委ね依存してしまった人がいたことがオウム真理教が大きな力を持ってしまった理由だと考える。

それでは今はどうか。私は日本ではオウム真理教のような宗教に多くの人々がのみこまれることはないのではないかと思う。その理由が上記にあげたSNSの普及である。SNSが普及したことにより多くの人が自分の発言を他者に見てもらえる機会が増えた。例えばツイッターで極端な意見を言うとする。「〇〇みたいなやつは死ねばいい」このように書くと炎上するかもしれない。でも一部にはその考えに賛同すると考える人が出るはずだ。その一部の賛同意見にだけ目を向けていれば自分の嫌な考え方が肯定されたような気分になるだろう。また今まではそんな風に考えていなかった人も、その極端な意見を見ることでそちらに考えが傾く可能性も増えたと思う。

 

抽象的でわかりにくいかもしれないのでもう少し具体的に述べたいと思う。

数年前に相模原で施設に乗り込んで障害のある方を大勢殺すという痛ましい事件が起きた。人数で言えば戦後最悪の事件と言えるのに、メディアで報道された期間が短かったように思った。この犯人は「障害のある社会に役に立たない人間は殺した方がいい」と自分の主張を今も曲げていないらしい。これは人として言ってはいけない発言だと私は思うけれど、ネットで「犯人の気持ちもわかる」という書き込みをしている人が少なからずいた。ここで疑問になるのは犯人に賛同すると発言した人達は、同じことを自分の家族や友達などに話しただろうかということである。おそらく話していない人も多いと思う。

一昔前だって犯人に賛同する気持ちがある人はいたと思う。でも口には出さなかった。人間性を疑われるから。これがSNSの匿名性が相まって発言しやすくなった。さらに多くの人が見るためその考えに賛同する人が出てくる。自分は間違っていないと考えてしまう、ということが起こる可能性がある。

自分の意見が認められる機会が増え、自分の承認欲求を満たしやすくなった今では、誰か一人に心酔するオウム真理教のような宗教にはまらない人が増えたと思う。また情報が手に入りやすくなったことで、危機管理をしやすくなったり、多くの匿名の人に意見を求めやすくもなった。

SNSの普及が日本が変わった全ての原因ではないと思っているが、やはりかなり影響があったのではと思っている。この普及により、自分の意見を多くの人に知ってもらいやすくなったり、漫画や絵などを書いてSNSで生計を立ててる人も出てきて自由も増えたと思う。逆に、倫理的にいけない発言が認められる機会が増えたり、承認欲求の塊のようになって自分が何をしたいのかわからなくなってしまったり、悪い情報に影響を受ける危険性が増えたのもある。

今どのくらいの人が日本のことを真剣に考えてるんだろうね。自分の身内さえよければいいやとなっていないか、私もすごい反省すべきだなと思う。

 

日本はこれからどうなっていくのかわからないけど、みんなが少しずつ楽と我慢をして、幸せに暮らせたらいいと思う。

 

おわり