36.夏物語 川上未映子
38歳の頃、夏子は自分の子どもに会いたいという思いを強くするが、精神的な原因により性交渉を行うことができないでいる。そんな折に精子提供サイトがあることを知り、さらに精子提供で生まれ、本当の父を探す逢沢と親しくなっていく。果たして彼女はどのような選択をするのか。
この本は文庫で600ページ以上ある長編ながら、面白くて何回も読んでしまう小説である。この小説に強く惹きつけられる理由は、善百合子という存在にあると思っている。
善百合子は、逢沢と同様に精子提供で生まれ、父親がわからない。それを知った時、子供の頃の自分に性的虐待をしていた人間がじつの父親でなくてよかったと思ったそうだ。
善百合子が主人公の夏子に問いかける場面があり、強く印象に残っている。要約すると下記のようなことだ。
・なぜ子どもを生むという暴力的なことを、みんな笑顔で続けられるのか。子どもが生まれてきたことを心の底から後悔したらどうするのか。
・子どもを生む人は自分のことしか考えていない。親は子どもの幸せを願うが、自分の子どもが絶対苦しまずにすむ唯一の方法は、その子を存在させないことじゃないか。
・そんなの生まれてみないとわからないというが、その生まれてみないとという賭けの代償を背負うのは自分じゃなく子どもである。
・愛とか、意味とか、人は自分が信じたいことを信じるためなら、他人の痛みや苦しみなんて、いくらでもないことにできる。
この文章を書くために読み返してみたけど、やはり心に刺さる。そして善百合子の考えを否定したくなる。なぜなら私は生んだ側だから。自分の行動・選択が間違っていたなんて思いたくないから。
生まれる前に、生まれてから起こる人生の全てのことが見られて、「私のところに生まれてくるあなたの人生にはこんなことが起こります。それでもあなたは私のところに生まれてきてくれますか」とインタビューできたらいいのに。よく子どもは親を選んで生まれてくるというけれど、そうであれば虐待されて亡くなる子は、日の光を浴びることなく生まれてすぐに亡くなる子は、病気で苦しんで亡くなる子はそれを自分で望んで選択していることになる。
子どもが自分で選択できない以上、親のエゴで子どもは生まれてくる。善百合子の考えを否定することは私にはできない。
それでも子どもの笑った顔に癒され救われたような気持ちになるし、子どもには幸せな人生を歩んでほしいと願ってしまう。それが親なんだと今は思っている。
35.アルジャーノンに花束を ダニエル・キイス
この本は好きで何回も読んでるけど読むたびに感想が変わる。
前読んだ時は天才になったチャーリーが孤独で自己中心的で傲慢になってて、その性格がまるで自分みたいだなって思った。
今回はチャーリーは天才ではなくなってしまったけど、人間として本当に大切なことを得ることができたんだな、よかったって思った。天才だった時は、思考の中心が常に自分に向いていて、周りが自分を馬鹿にしたり気持ちをわかってくれないことに腹立たしさを覚えていた。だが最後には笑われてもいいって思えるようになったし、周りのことも大切に考えるようになった。
ダニエルキイスがこの本を出版社に持ち込んだ時、最初は「最後が暗すぎる。チャーリーが天才のままキニアン先生と結婚するストーリーにしてくれたら出版する」と言われたそうだ。ダニエルキイスは悩んだが、親友に「ストーリーを変えたら脚を折る」と言われて、別の出版社に持ち込んで出版できることになったそうだ。ストーリーが変わらなくて本当によかった。
確かにこの話を「利口であればたくさん友達ができると信じていた知的障害者は、手術で天才になった。しかしそれによって、友達もなくし孤独になり、最後は天才ですらなくなってしまう」という外面的な部分だけどみたら、バッドエンドだと思うだろう。しかし私はチャーリーは最後に「得た」と思っている。それは目に見えるものではないし、他の人からみたら瑣末なものかもしれない。天才である方がずっといいと思うかもしれない。でも私は優しくて温かいチャーリーが好きだ。だから何回も本を開いてチャーリーに会いに行くのかもしれない。
34.聖少女 倉橋由美子
交通事故で記憶を失った未紀は、ぼくに事故前に綴ったノートを手渡し解読してくれるように頼む。そのノートには未紀のパパに対する狂おしい愛が描かれていた。
このノートには謎が多い。日記にしては抽象的で具体的なことが書かれていない。パパと父は同一人物なのか。どうして未紀とパパは愛し合うようになったのか。本当に血が繋がっているのか。
そして書いた本人が記憶をなくしていることがノートの謎をさらに深めている。
物語の中盤で未紀(はパパと)とぼく(は姉と)はどちらも近親相姦を経験していることが判明する。
近親相姦というものに対してザラついた嫌悪感を覚えるのは私だけだろうか。
未紀は「理解できないものを人は悪としてきたから近親相姦も悪になった」と言っていたが、それなら殺人や強盗だって悪である。しかし何というかそれらと近親相姦に対して覚える悪の種類が違うように感じるのだ。
なぜそう思うのか理由は説明できないが、近親相姦に関して一つだけ言えるのは、血の繋がった相手とそこまでの関係をもってしまうと、おそらくもう二度と他者と親しくつながることができないだろうということだ。
最後はぼくも未紀も現実を放棄し他者との関わりを止める。
未紀は少女のような純粋で一途な愛を持ち続け「聖少女」となるのだ。
難しい本だったけど面白かった。
33.朗読者 ベルンハルト・シュリンク
愛を読む人という映画を観て原作に興味を持った。
主人公ミヒャエルは15歳の時、黄疸にかかり道で嘔吐してるところを21歳上のハンナに助けられる。それをきっかけに二人は恋に落ちるがある日ハンナは彼の元から姿を消してしまう。
時が経ちミヒャエルは法学生として強制収容所に関する裁判を聴講する。そこには被告人としてのハンナがいた。
映画を観た時、最初のあまりに甘い恋の様子とあまりに異なる裁判の内容に衝撃を受けた。
ハンナは裁判でうまく立ち回れず、他の看守からリーダーに仕立て上げられてしまう。ハンナは反論したが、筆跡鑑定を行うと告げられるとリーダーであると嘘をついてしまう。
ハンナは文字の読み書きができなかったのだ。それが周りに知られることを彼女がどれだけ恥ずかしく思っていたか。
こうして他の看守よりはるかに罪が重い無期懲役を言い渡される。
ミヒャエルはそんな彼女のもとに昔のように朗読したテープを送る。ハンナはそれをもとに読み書きを覚えるのだった。
ミヒャエルは15歳の時の甘美な想い出をどうしても忘れられないでいる。そこからハンナと関わることはいくらでもできたはずだ。例えば彼女に嘘をつかないで文盲であることを認めた方がいい、そうでないと重罪になると言うこともできた。例えば刑務所で暮らす彼女を訪ねて話をすることもできた。でも彼はしなかった。ただ朗読テープを送っただけだ。しかも昔に読んだことがある本を先に朗読してテープにした。そのことからも彼がその想い出に強い執着があり、そこから先に進むことを望まない意思がみえる。
でもどうして彼を責めることができただろうか。
この話には年代も大きく関わってくる。ミヒャエルは戦争を知らない世代である。しかし親世代は何かしらでナチスドイツと関わっている。看守だった人、ユダヤ人を迫害していた人、傍観していた人。
しかし親世代は戦後自分達が何も罪がないように振る舞った。その子供世代であるミヒャエル達は何もしていないのに、外国に旅行に行けばドイツ人というだけで非難される。親世代が背負わなかった罪は国全体の罪になる。
子供世代ではそれに対して親世代に反抗する学生運動などが盛んであったが、ミヒャエルは親世代だけが悪いと思う子供世代からも一線をひいている。
そんなミヒャエルが、自分の愛した人が強制収容所の看守だと知った時にどれだけ衝撃を受けたかは計り知れない。彼はこれ以上その想い出が傷つかないように蓋をし、自らもその中から出てこなくなったとしても不思議はない気がする。
これが彼女が突然自分の前から姿を消して二度と会えなかったという話であったら彼がこんなに想い出にすがることもなかった気がする。もしかしたら忘れてしまってたかもしれない。
ハンナはミヒャエルの朗読テープで文字を読み書きできるようになり、強制収容所に関する本を読み漁った。そして自分の罪の重さを知った。また出所する直前に面会に来たミヒャエルにすげなくされたことで、自殺してしまう。
最後まで少し悲しい話だったけど、ドイツ人の視点からナチスドイツをどう捉えていたかを少しでも知ることができてよかったと思った。
32.コンビニ人間 村田沙耶香
芥川賞受賞作品。久しぶりに読んだけど面白い。
正常であることとはなんだろう。社会は自分の理解を超えた異物をどうして排除しようとするのだろう。
主人公はずっと正常になりたかった。小さい頃からうまく周りと順応できず、周囲を困らせてばかりいた。きっと主人公はマニュアルがあったら行動できたのだと思う。しかし社会にはマニュアルがないのに目に見えない「当たり前」がたくさんあって、それを察して順応することが排除されないために必要になってくる。
最後主人公は周りと迎合することをやめ、コンビニ人間として生きていく。私は主人公が羨ましいと思った。周りになにを言われても自分の生きる道を決めることができたからだ。
私にはそのようなブレない軸がない。何がしたいのかどう生きたいのかもよくわからない。だからいつもちょっとしたことで落ち込んだり迷ったりする。
周りから好ましく思われなかろうと自分の生きる道をきちんと決められる人はかっこいいと思う。
31.ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー ブレイディみかこ
まずタイトルと真っ黄色な表紙に惹かれた。
色の羅列。どんな話なのか興味をひかれる。
この本は作者が、息子とのやりとりを書いたエッセイである。
作者は日本人で、旦那はアイルランド人であり、英国に住んでいる。だから息子はイエロー(黄色人種)でホワイト(白人)である。ブルーは息子の気持ちを表している。
息子がカトリック系の小学校から、差別が横行する元底辺中学校に入学することから話は始まる。
そこで息子は自分だけではなく、様々な子供が差別を受けている現状を知り、その問題について悩み、自分なりの正しさを探していく。
この本を読んで差別には2つの種類があるなと思った。
1つはその言動が差別的であると自覚しながら、相手に対して自分の優位性を示すために行うこと。
2つは自分では意図しない、知らないあるいは大したことがないと思ってした言動が、相手には差別的な言動と感じてしまうこと。
1つ目は一人一人が相手に敬意を払い、良識的な言動に気をつければ防げることだが、2つ目が難しいと思った。
例えば私達は日本人と外国人の両親から生まれた子供をハーフという。しかしこの言葉を失礼と感じる人もいるようだ。ハーフという言葉が、その人を半分の存在、半人前と言ってるように聞こえるからだ。クオーターなんて4分の1だ。
私達がハーフという言葉を使う時、その人を半分だと差別する発言として使っていないと思う。ただ日本でよく使われている言葉だから使用しているだけだと思う。
このように自分の何気ない言動が相手を傷つけたり、差別的になってしまうことがあり得るのだ。
よく「相手の立場に立って発言しよう」「自分が喜ぶことを相手にもしてあげよう」など、相手を慮った言動をするように教わってきているが、異なる環境で育つと、自分が良かれと思ってした言動がどうしようもなく相手を傷つけることもある。
それを理解した上で、悩みながら相手のことを考えていくってことが大切だと思った。
とにかく息子が良い男の子なのでぜひ読んでほしい!
30.日の名残り イシグロカズオ
主人公、執事であるスティーブンスは以前の主人であるイギリス紳士、ダーリントン卿が亡くなった後、新たな屋敷の所有者であるアメリカ人のもとに仕えている。そのアメリカ人から旅行を勧められ、かつてともに働いていた女中頭のケントンに会いに行く。
スティーブンスはダーリントン卿こそ品格のある素晴らしいイギリス紳士と考えていて、彼のために文字通り全てを投げ打って仕えてきた。尊敬する父親の死に目に会えなくても、女中頭と結ばれることがなくても、仕事を優先させてきた。いわばダーリントン卿の影になってきた。
ダーリントン卿は第一次世界大戦後の負けたドイツに対するフランスの冷遇が許せず、なんとかドイツと各国との関係を修復しようとしていた。彼は正しく高潔であろうとしたのだ。
そして各国の要人との密談が夜毎ダーリントン卿の屋敷で開かれ、そのたびにスティーブンスは誠心誠意をもっておもてなしをしてきた。
ダーリントン卿はその過程でナチスドイツと親交をもったことにより第二次世界大戦後に激しく非難されることになる。結局失脚し、彼は失意のまま死を迎える。
イシグロカズオの作品の特徴として語り手が不確かなことが挙げられる。
人はどうしても自分のみたいものをみようとする。過去にあった自分のささやかな栄光を大きな功績のように語ってみたり、自分にとって不利益な部分をあえて書かなかったりする。
しかしその語り手の断片的で不鮮明なエピソードのピース達が、最終的に1枚の絵のようにつながるところが面白いと思う。
スティーブンスは執事には品格が大切なのであって、ある時代にあった執事の会のように名家で雇われていることが素晴らしい執事ではないと主張する。
これは一見筋の通った言い分に思えるが、結末がわかった後だと、ダーリントン卿の失脚によりスティーブンスもまた素晴らしい執事とまわりから認められなくなることを避けるために、この会を否定してるとも捉えることができる。
スティーブンスは心から尊敬したダーリントン卿が周りに嘲笑されながら亡くなったことで、自分自身の存在価値を見失っている。しかしそのことをなかなか認められない。
華々しい栄光の日の名残りのような今を受け入れることができない。
それでも旅をとおして多くの人に会い、様々な景色を見たことで、彼はこの日の名残り、夕方のような今を受け入れ、また日が昇るまでの準備に向かう気持ちをもつところで話は終わる。
人の弱さとそれでも前に進める力強さがつまった作品だなと思った。